ときたま日々の記
きょうの詩
「いのち」
歩道をいっていて
信号をわたった通り沿い
すぐの
道わきに せみのこえがふって
せいせいいっぱいに 鳴いてるその
こえの出どこをさがしたら
枝 あそこ
ほそい足がつかまえる木の
うえにふるわせて
ぼくの耳までとどく ふるえの
ああ みつけた
そのうれしさを
まだ せみをみつけられる
子どものじぶんの
うれしさをたしかめてまたいく
2008/9/1
___
「キリだ!」
キーウィでも
チートスとかでも
ねー
んだっけ
名まえはもう
食べている
ビールとなんとか チーズ
2008/8/30
___
「ねつ」
背なかから せんぷう機に
吹いててもらって
どうにか やっています
、て
だれに言うでもなくて
風が吹いています
こえがとばされていきます
すぐかべにあたって
そこから蝉と
いっしょに歌いはじめます
2008/8/29
ほへほへの記
洗濯物を昼ま干していたら、向かいの植え込みのあたりからツクツクホーシのこえが聞こえてきた。おお。うちのあたりはここまで、ミーンミーンミーンミーンときたもんだから、おお。と思った。夏の折り返しを過ぎたか。
*
さきほどまでかけてコピーをまとめて、それを送って一息ついた。
先週もそんなことを思ったけれど、最近(ここ)んところ広告以外の仕事がけっこうあったからか、純粋に広告という仕事をしているとわくわくしてしまう。じぶんはコピーライターだなあ、と思う。それ以外の仕事も楽しいんだし、もう新鮮でドキドキするのだけれど、やっぱりからだがおぼえてる仕事の勘を働かせられるコピー仕事は、いいね。
コピーのことば表現のよしあしとはまたべつなところにも、コピーライターの仕事はあって、むしろ後者のほうがウェイトが置かれることがままあるように思う。これを“「どう言うか」より「なにを言うか」が大事”という。この「なにを」を見つける仕事は、ことば表現の手前の仕事なわけで、これをみつけためのイロイロなことは磨いて磨きすぎることはない。
ふう。でも、白井にコピー語られたくないよ、っていう人のほうがきっと多いだろうから、このへんで。
やっぱりコピーは、語るものじゃない。道ばたでみかけて、それで、ぐさっとくるものだ。
*
道ばたといえば、道ばたの焼き鳥屋で、焼き鳥がくいたい。。
瓶ビールで、ちっちゃなKIRIN BEERとか書いてあるコップにとととって注いで、くぴっと呑みながら、串をほおばんだ。
くー
くー ー
2008/8/20水 きょうは携わっている広告仕事の撮影があった、から、晴れてよかった
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下北沢ですどうとのんだ。
目当ての焼き鳥やさんが盆休みだったので(ざんねん)、
その先にあった魚の呑み屋に入った。
新さんまをさいごに食べて、それがおいしかった。
そのあと庄屋にながれて、ちびちびと。
独自の道をいく人は、頑固というより、素直なんだよということばが印象にのこった。
貞久さんの詩を思うとき、ふかくうなずけることだな、と思った。
*
柴崎友香の短編集『ショートカット』を、先月、むとーやらしながーやらに、知らないってったらアワレナヲトナをみるような目でみられたので、そういえばと入手して、よんでみる。おもしろい。おもしろいおもしろい。こういうのはきっと、音楽みたいなきもちよさなんかな。流れてくながれてく。
2008/8/19火 ときどーきあーめー かさをーいざかやにーわーすれーたーあー
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西口で打ち合わせを済ませて、駅ビルのうえの本屋に寄って、宮崎駿のインタビュー集というのを買って
東口のいきつけで、とんかつ喰ってかーえろ♪
とか思って、歩いてたら、あれっ!? そこにPSPでごいっしょの詩人さんおふたりがいらっしゃるではないですか。
と。
のんでしまいましたー
(でも、もうおさいふには二千円っきゃ入ってなく、、ほんのかるく、魚民で)
たのしかったです!
2008/8/18月 夜
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つくりたい、こうした方面の詩の活動をしたいと思うかぎりのものことをここまでの半年であれこれあれこれつくり、活動することができました。それはいろいろな人とのかかわりのなかでできたことで、感謝をし、つくづく幸せなことだったとかみしめていることです。
たぶん、ということでしかないのですが、9月以降今年の残りは、詩の会やイベントなどに参加する機会はすくないか、あるいはないだろうな、と感じています。
そのときそのときできっと、すべきだと感じることがあり、その感じることにしたがって詩を書き、ものをつくることができたらと願いますが、なんとなく、そうした時期にくる気がしています。
じっさい、今年の前半がたくさんのことに恵まれたのですし、去年であれそれ以前であれ、これほどまでのことはなかったように思います。
*
それとはまた別のこととして、地に足のついた詩人さんとお話をすることで得られるものというのはほんとうに大事なものです。
しらいはたいてい浮き足立っているので、そうした詩人さんにお会いできる機会をいただくと、敬意とともにこころがしずまり、また勇気づけられます。
行く道がおなじであれ、ことなる道であれ、尊敬できる詩人さんとお会いできること、お話できることは幸せなことです。
それは、友だちの詩人もそうだし、本をつうじて存じあげる人もきっとそうだと思います。
*
今年前半出しつくしたことで身軽になり、いま抜け殻を置いてきたように、もういちどじぶんの(とぼとぼとした、あんまりまわりにだぁれもいないような一人の)道にもどっていくようにして詩を書いています。
それはたのしいことだし、しあわせなことです。
なにも居ぬごときが時の金魚玉 阿波野青畝
2008/8/18月になったばっかりの夜
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今週はちょっと力をいれて仕事をしようと思います。
というのも取材が一段落し、ようやく執筆にとりかかれるからですし、夏の暑さにからだが慣れてきたのか、気力が湧いてきています。
ひさしぶりに、広告モードでもあります。
いまうごいている仕事を、ひとつひとつ、どこがその広告コミュニケーションの中心となるかをさぐりあてようと試みながら、仮説であり意思であるコンセプトにのせて、コピー化しようと思います。
今年前半が、書籍中心でしたので、この緊張感はひさしぶりです。
ぐ、といきます。
うごいているのは二本、プラスややスケジュールに余裕がある三本なので、ひとまずは二本を、一気に今週かたをつけます。
気合をいれてとりかかりたい気分になるのは、うれしいものです。
2008/8/11月 朝昼兼で野方ホープな晴れ よるにわか雷雨 な日
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このホムペは最近、更新もしてないし、ほったらかしで
ひとりごとみたいなんばっかしであれだなあ。まぁいいや。
昨日で取材がひと区切りついた仕事があり、
来週からいよいよ文章書きにとりかかります。
わくわくと。
*
たったいま!
連絡がありまして、おさいふがみつかりました。
よかったあああああ。
大事なおさいふだったので、いろいろなかたのご親切と幸運に感謝です。
ほ。
2008/8/9土の昼ま はれ
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たいへんです!
きょうお二人のかたからご連絡をいただきました。
昨年暮れに制作した『歌こころカレンダー 自然』という短冊型のカレンダーに落丁があったそうです。
お二人とも、秋の季節まるごと抜け落ちていたということですので、昨年末にご注文いただいたものに同様の落丁がある可能性があります。
もしお持ちの方で、そのようなことがありましたら、無名小説あてにメールをお送りください。
メールアドレス
nanashi@mumeisyousetu.com
(半角に打ちかえてお送りください)
昨日8/7から立秋となり、暦上の秋となりました。ので、そこで、あっ!ない!とお気づきになったかと。
申し訳ありません。落丁ありました際はお手数ですがご一報下さいますようよろしくお願いいたします。
*
で。
おさいふを落としてしまいました。。
人生初。大事なおさいふだったのに、、どうやら出てこないみたいです。うぅ。
*
さよならをする時期というのはあるようで、
とある詩人さんたちと先月末に呑んだのですが、
それは決定的なわかれのめだったようです。
呑んでソソウして、そのあとしこりが残るような関係はにがてです。
もちろん賢明な読者のかたがたのご想像どおり、口のわるい白井に原因はあるわけです。
さよならするのはさびしいけれども、それは仕方ないことだというのが時にほんとうにあります。
ぼくのほうでも修復したい気が全く起きないというのが、われながらよけい、情けなく、さびしく、
でもやはり、呑んだ席のことばには責任をもってなんぼなので、もうこれはこれで。
2008/8/8金 はれ
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立秋のはじめの日。暦のうえでは今日から秋ということになる。ふしぎ。
きのうはふしぎな縁を感じながら、取材の帰りに新宿でスカイ・クロラを観ました。
いい映画でした。いまの若い人に、というところには違和感をおぼえもしました。
ポニョとこっちと、DVDどちらかくれると言われたら、こっちを選ぶと思います。
*
きょうは昼すぎまで家で案出しをし、午後打ち合わせに、それから夕方、数か月ぶりに髪をきってきました。ふう、さっぱり。
とてもとてももったいないようなお葉書が、尊敬する詩人さんから今日届き、もう、、感涙。。。うう。
どうしてこんなにゆれているときに、こんなおたよりをいただくことができるのだろう。
こころはゆれる。詩こころとしてゆれる。詩はゆれる。詩としてゆれる。ゆらんゆらんゆらあん。ゆやんじゃないよ。ゆよんじゃないよ。
ごめんね。と言いたい気持ちでいる。
ごめんね。と。
でも言わなくてもたぶんいいのだろう。そういうことはことばにしないといけないものであるけれど、しないほうがいいときだってあるから。
*
詩ー
おーい 詩ー
おまえが来ないんなら、
こっちから行くぞーおーい♪
2008/8/7木 はれ
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ようやく詩に追いついた。
そうかもしれないと思えるようでいる今日です。
ずっとみえてないでいたものが、みえてきた気がします。
周囲から、あほか?と思われてなんぼ、というのがぼくのスタンスなんでした。
賢い詩ぃは、テンピにかけて焼いたってください。
はー あー
愛。
*
もー いらねー
詩論いらねー
なんとかいらねー かんとかもいらねー
おー いー うー いー
なんだよ。
詩だ。
詩だ。
わかった。
ていうか
ひさしぶりにもどってきた!
あー おれのー 詩だーーーーーーーーーー
つぎの詩集、楽しみにしててね〜(何年後だ〜?????
2008/8/5火 二の丑 くもりはれ雷雨すんげーどしゃかみなりう ポニョみる
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先週は、すごいものがじぶんに押し寄せてくる週でした。
やはり、貞久秀紀さんの詩を読むことができたことは、これからなんどもなんどもよみかえすだろうことで、うれしくうれしく今週のスペシャルうれしいできごとでした。現代詩手帖の今月号に、小詩集が載っています。
そして昨夜の康本雅子さんのダンスは、かっこよかった。。
じぶんがたちどまっているときにも、こうしてなにかが降りそそぐというのは、とてもありがたいことだと思った。
ぶーちゃん感謝。
そして、ヨーロッパへ渡っていったショウエイくん、行く前日、会えてよかった。よい一年でありますように。
*
昨夜パフォーマンスを観終えて、いったん外へ出て、むしょうに風にあたりたくなって、で、会場へもどって観客やステージやパフォーマンスを終えた人たちをみていて、家族のことを思っていました。
家族を愛するってどういうことなんだろうと、あたたかいエネルギーを注ぎこまれた身に疑問がしずかに浮いてくるように感じて、その疑問にはまだ道すじをつけてはなくて、ただ疑問としていまもあるのですが、また詩を書いていきたく思いました。
もっとも近くにいるひとをどこまでふかく感じること、みつめること、そして接することをするのか。そうやって生きていくことのなかにいること。
2008/8/3日 昼
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柴田千晶さんの詩集『セラフィタ氏』出版記念パーティに出席し、柴田さんの朗読をきいてから、会場をはやめにあとにし、一件撮影立ち会いを経て、そののちのこと。
*
いとうせいこうのイベント「せいこうナイト」に、ダンサーの康本雅子さんが出るとのことで、とるものもとりあえず、かけつけた。
はたして、康本雅子のダンス、それは、
少年の日のふるえ
だ。
ほそいからだをしなやかにのばし、回転しては足を蹴あげ、うわめ遣いから握り拳、全身をとつぜんゆるませたかと思うと、ショートの髪が無重力下をうかぶように舞い、スポットライトをはずれ胸をはり客席をみはるかす。
かっこいい。
きれい。
うつくしい。
かわいい。
すごい。
それらの感情がわきおこる男前な意気のマニッシュ美人の躍動は、みていると、こっちの細胞にまで波動がつたわってくるのか、おどりたくて、からだをうごかしたくてたまらなくなる。
が、それだけじゃない。
ふるえるのだ、心のうちが。みおえて、舞台をあとにした帰り道も、そのふるえはおさまらない。
物心つくかつかないかの頃、いいしれない世界への、また将来への漠然とした不安につつまれた夕暮れ時、やみくもに自転車をこぎ、すっ飛ばして走った記憶がある。
あれに似た、ふるえだ。
なにかがたまらなくて、たまらなくて、しょうがなくなる。
そして、じっとしてられないで、飛び出す、あの感じ。
どこへ?
どこへ向かうかなんて、そんなのはわからない。しらない。ない、かもしれない。
でも、どこかへ!
康本雅子のダンスをみていると、青春のちょっと手前のガキのころの、あのドキドキがもういちどわいてくる。
この道をどこまでもまっすぐ歩いていったら、あの橋を渡って川向こうへ行ったら、行き先もしれないそのバスに乗ってみたら、世界はどうなっているんだろう?
そんな疑問がいつも胸のなかにひしめいていた、ドキドキ、ドキドキと。
ふるえのわけは、しらない。
ただふるえる。
まるで、康本雅子のダンスが、世界のむこうがわへとつながっているかのように。
2008/8/2土 はれ
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ここから先は、じぶんにとって未踏だから、どこへふみだすのがつぎの一歩なのかは容易にわからない。
書くだけなことが、みえてくるものをみえてくるようにしてくれると思うし、信じるし、そう感じてきた、これまで、これからもたぶんそう。
詩 というとき、西洋詩からのながれで現代詩へふみこもうとするのはそれはそれでよいのだし、その道も豊かな実りを得ると思う。
ではそうでない、日本のうたをどう詩としようと、そう思うと足がすくんでしまう、おいそれといけない、いこうとしては、はたとすすめない。
と、そんな状態のまんまいつまでいても始まらないから、そろそろそろりと、どうにかしなくちゃいけない。んだよな。
ふうお。
なにもない
なにかある
なにもない
なにかある
もうじゅうぶん、いま書ける詩は書いた、ときょう友だちに話して、そう口に出してしまったらたしかに、そう感じる、感じられる、そうなのかもしれないほんとうに、と、これは北海道へ春、行ったとき初めて思いとして浮かんだこと。
いま書ける詩をあとにして、また、これから書ける詩を。
あおお。
おお。
2008/7/29火 はれ 夜一時雷雨
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また詩をすこしとおくのほうにあるもののようにみたい気がしてきて、とおくのほうにあるもののほうへちかづいていきたい気分になってる。
日本語がそれじたいうた、というのはもう、じぶんのなかにそうだそのとおりだよ、というふうにあるにはあるけれど、その先へさあ行こう、という先がいま、とおいぃ。
とおくてもちかくても、とくにこまることはなくて、とおいぃ詩のあるところへ、とことこと歩いているのがいまだから、なんてでも思えばいいし、そうすること以外することもないのでそうしてるんだと思うけれど、べつに何かとくべつなことをするわけでなく、ただ、
詩って・・
とかとぼーうっと思いながら、とんかつをたべながら、窓の外をみたり読みかけの文庫をまた読んだり、おいたるスポーツ新聞であ、いま阪神が勝ってんだ、きょう五輪代表の試合やんだ、てしたりしてる。
たぶん、つぎ書くときまたあたらしい詩だ。そゆもん。
*
で、いま、たとえば
木村伊兵衛の写真と、土門拳の写真とをならべて語る人のもの言いについてかんがえてみたりする。たとえばアラーキー。
「(木村は)上手いんだけど上手いって感じさせないのがいい。それがあるから親しみがあるし体温を感じさせる。写真という作為、作画がないんだよね。だから「木村伊兵衛の写真を一点挙げろ」って言われても、挙がんないわけ。要するに作品になってない。強烈に作品にしようと思って撮っている土門拳と違う。その人の雰囲気というかオーラを撮っちゃうんだよね。」(「ふつうのなかにいちばん大切なことがある」荒木経惟)
日本語で詩を書くとはどういうことだろうか。
というはなしと、
写真という行為、作画がない/強烈に作品にしようと思って撮っている
という比較のはなしとを、重ね、添わせるように、いまあたまのなかに置いて、思っている。
詩を、行為しない、ということのほうが、じぶんに身近な気がしている。
ただそれだけ、というままで、どこへいけるのか、という関心のほうへ、かたむいていきたいと思っている。
ある意図や、詩をつくろうという思いがあって、そこからうまれる詩を、じぶんで書きたいと、いまの時点ではあまり思っていないけれど、そうした詩に魅力があり、人を惹きつけるものがあるのを感じる。そこはちゃんと感じる。
でもやはり興味があるのは、詩を、行為しない、作詩(作画に対応する詩のについての言い方がうまくおもいつかないや?)がない、というほうが、おもしろく感じられてしまう。
それを、べつな写真家が、べつな話題のなかで、こう言っていたりする。
コンタックスは、攻撃的。ライカは受け身。
ぼくは攻撃的に切り込めるのがいい。
なるほど、と思う。ライカは受け身。だと。
木村はライカしか使わない。
じゃあ。
とぼくは思う。
いきなり飛ぶけど、
ライカは、俳句。
写真という行為、作画がない木村のスタンスは、俳句のあるひとつのスタンス
だと。そうだとは、いえないか。いえる。ように感じる。
べつに俳句じゃなくてもいい。
なんでもない、ただのぺら〜んとしてるもの。なににもとらわれてないもの。
そういうものをいいとおもう。
それがねぇ、、
さ、て、
どこいこうかなぇぇ。な気持ち、気分、
とぼとぼと
*
なにも書かない
というありようのままを それをことばにできるのが、日本語のいいところのひとつ。
なにも、といっても、0ではなくて、たいしたことをなにも、という意味で。
たとえば、
池にカエルが飛び込んだ、水の音がしました。
とか。
さいきんまでずっと、考えて考えてきたのだけれど、この俳句はやっぱし、とんでもなくすごい、というものでもないのかもしれない、というのが最近の感想で、ただ、おぼえやすい、五七五のリズムにのせる俳句の陽気な面をあらわにしてる平易な語のならび、などがおもしろがられているのじゃないか、それがいちばんの理由で、いまだにおぼえられてるんじゃないか、松島やああ松島や、とはちがうけれど、あれが言われる感じとぜんぜん違う、というほど離れてはいないんじゃないか、などと思っていて。
ただ、
またもどって、
なにも書かないで(なんということもないことを書いて)詩になる
という点における、日本語のよさは、すてき。
*
なにも書かないで、詩になる、というのはどういうことだろう。
その問いのこたえが、そのまま、いまとぼとぼしてる道の途上にあって、そのこたえを拾っては、またぽいとして、またとぼとぼ歩いているんだとじぶんでは思っているのは、そのこたえを知ってようが知るまいが、かんけいない、というのが、なにも書かない、で、詩になる、という道のなりゆきで、
さて
はた と
*
自由口語詩ということは、作品化する方向を放棄する方向、といってもよい。
作品として結晶化する、といいかえて、でそうするとそれは、短歌のしごとのような気がして(詩のしごとでもいいけれど)
でも 自由口語詩の真骨頂は、
よわさ
なんにもなさ
結晶しなさ
とかなんとかにある。
とはかぎらないけれど、そうもいえる。
どうしたいかというと、
俳句のうち、なんにもうたってないに等しいような俳句、
の音数律をなくして、
さらに歌としての型をぐずぐずにして、なんでもなくしたい。
というところがひとつある。
そこまでいくと、
なんでもないただのことば
であるようで、
それでも詩になる
というのが日本語のよさ
というふうに信じている
池にカエルが飛び込んだ水の音がしました。
そんだけいって、それで詩になってるような
そういう
(追補)
なんということも書かないで詩というふうになるのには、どんなことばの働きがあるんだろう。
区切らず、途切れず、限らない、たゆたうことばとしての日本語の働きがあるのではないか。
途切れないことで、息のながいことばのつながりが詩に生まれ、そのことばの連なりは、おのずから書き手固有のことばのリズムをあらわすだろう。
区切らないとは、たとえば、あるでもなくないでもない、というような境界のうすまりのことを挙げられるとしたら、その意味の区切れなさは、うらを返したら、意味の越境をかるがるとゆるすことばであり、イメージがどこまでものびてゆくことをもたらす。
そして、限らないというのは、たとえば主語を伏せることで、どのような話者が発語しているかを読み手の想像にゆだねることができ、ことばの意味の多層さをありのままさしだせる、というようなこともできるだろうか。
息の長いことばが、書き手固有のリズムを生みだし、意味のあちらこちらするゆらぎがイメージにひろがりを与え、また意味をとらえ尽くせないあいまいさとあわさり幾層ものことばの意をそこにあらわせたとしたら、そこになにというほどのことの書いてなさこそが、そうした日本語のことばの奥行きをさらにひきのばすことになるのではないか。
「。」と区切りをつけるたびに、そこでイメージ/意味がひとまとまりとなるけれど、そうならないで、つづきつづいていくことばのつらなりのほうに、ことばの綾なすおもしろみがあらわれてくるというのに惹かれつついる。
2008/7/24木 はれ
________
*おしらへ
2008/7/13(金) 「TOKYOポエケット」という詩のイベントにブースを出します。
会場:両国江戸東京博物館1階会議室 開催時間:13:30-19:30
あー、ひさびさです。第一詩集出したとき以来だから、かれこれ4年ぶり。
できたてほやほやの沖縄詩篇や、
詩人のカレンダーの短冊形のと、えんぴつ形の。
それから詩集とかを出す予定です。
________
格差社会で、サブプライムで、原油高で、うーたらであーたらで
んーなことばが世の中に流布してるなか、ふと、おもった。
やさしくなろ
ふつうこういうときっって、
逆んなりがちじゃないだろうか。
ひとより得したい。先んじたい。勝ちたい。
で。
目の色かえて、ほんのちいさなところにその、余裕のなさが窺えてしまう。
でもそれは、しかたないといえば、しかたない。
かつかつなんだし、いっしょうけんめい働いても稼げないんだし。
じゃあ、どうしたら、いんだろう。と考えたとき、
こういうとき、人に親切にするってどうだろう、と思った。
世の中が閉塞してるっつーなら、
その閉塞してる世の中がもし、親切心に満ちてたらどうだろう。
親切にするのに、他人にやさしくするのに、お金はかからない。
閉塞感がどんなに日本経済を覆っても、
それにまけないくらいの、あったかさが町にあふれてたら、社会は閉塞しないだろう。
いま人の心は、経済にペースを握られてる。
そんなことないだろうか?
けれど、どんなに経済的に貧しい国になろうと、
それがどーした?って言って
他人にあったかくできる人ばっかりいたら、その国の人たちゃ幸せだ。
どうしたらいい?
こういうときは、お金のからまんないとこで、
人情だよ あったけえ
2008/7/7月 あめのちはれ
________
6月26日(木)から29日(日)まで北海道・旭川と東川へ行ってきました。
28日(土)の午前に大雪山をロープウェイで上り、
神々の遊ぶ庭こと、カムイ・ミンタラへ行きました。
はたして、、白井はその霊性を感じることなく、
「でけー でーけーえー」
とその広大さに、棒立ち。
高原植物のちっさい花をしゃがんでよーくみると、
花びらが7枚あって、その一枚一枚の曲線ラインがかわいいかったり、
五枚ある花びらと花びらの間に、おしべ(めしべ?)が生え伸びていて
花びらとぴったり同じ本数になってたり、
ミニマムワールドがふしぎなかわいさでした。
*
で。
沖縄のウタキにしても、諏訪の湖や山にしても、
そこから霊性?と錯覚したくなるような、独特のふんいきを感じるのに、
なのに、こんなにおっきなカムイ・ミンタラで、なんでそれを感じられないのでしょう?
はっと気づいたのは、
今回の旅の目的である家具工場の見学・取材をしていてでした。
その工場には、そのふんいきを感じたのです。
木を殺める。その殺めた木のいのちを大事にうけとめて、用の物をつくる。
その場として、そうした場を神聖なように感じたのですが、
気づいたことというのは、
「ふんいきを感じたその工場とは、自然と人が境を接するところである」
ということでした。
おもえばウタキも、諏訪も、
ぼくが行ったのは、人の住み処に隣りあい接しているような場所ばかりでした。
カムイ・ミンタラはそうでなく、自然に自然が隣りあい、ひしめきあうような、
そんな圧倒的な自然の場所なのです。
*
自然と人が接する境にいると霊性を感じるのが、ぼくの感じ方だということ。
圧倒的な自然の中にいては、それを感じられないということ。
(これを、間(ま)とか、間合いとかってことで言うと、
つまり、カムイ・ミンタラのとんでもない懐の深さに、
白井は、間合いがつかめなかった。間を読めなかった。あるいは、
とっくにカムイ・ミンタラの間合いにとらえられて何もさせてもらえなかった
、てとこかな)。
それって、、
感受性がしょぼおおおおおお。
とわれながら思ってしまいました。
そう思ってばかりだとヘタレてしまうので、異なった見方をするなら、
神とは、人と関わりがあるところで初めて意識にのぼるものかもしれないということ
(人がいない冥王星に神がいるかどうかは、関心の範囲から外れる、というようなこととして)。
カムイ・ミンタラは、人を(ロープウェイなんてなかった時代はなおさら)
遠ざけるに足るほど広大な峰々なわけで、
そこを「神々の遊ぶ庭」と名付けて、近寄れなかった古代の人たちは、
やはりおおきな感受性の心を持っていたんですね。
*
霊性、なんて、この無名小説には似つかわしくない気取ったことばかもしれない。
なんか神妙な感じ、といえばいんだろか。
カムイ・ミンタラはそういうのじゃなくって、
もっとおっきな、すかすか風がびゅーびゅー通ってくようなとこ、に感じた。
それもまた神の居所だというのが、素敵なわくわくできごとだった。
ろっくんろーる・ミンタラ
2008/7/1火
________
貞奴のサイトがクローズする。
詩のホームページの極北であったような、
ことこととここまで、たびたび心をほころばせてくれたサイトだった。
読者としては、そろそろ、と以前からアナウンスされていたので唐突なわけではない。
くる日がきたんだな と
それにしても、大切に拝見してきた場所だった。
感謝と感謝と喜びを
2008/6/26 木曜
________
明日の夕方から、これは本当にめずらしいことですが、
仕事で北海道へ行ってきます。
これまであった出張仕事といえば、
四年ほどまえの広島出張でしたがあのときは某店舗のオープン直前で
現場でその場でコピーを書くという鬼ハードなものでした。
そういえば、あまりに楽しくて意識しませんでしたが、
サルビアの手づくり作家さんをたずねる取材の旅も仕事でした。
見学と打ち合わせとディスカッションとインタビューにエネルギーを注ぐ、と。
そういう旅ですので、お刺身やらラーメンやら仮にたらふく食べたとしても
それは仕事のあいまのほんのひと息の時間なのです。
*
で。
なんとなく、平穏な時間が流れているいまですが、
願わくばこれが、出張から帰ってきてもそのまま流れているといいです。
もちろんじぶんの心がけ次第の部分もあるのですが、
にしても、
先週から今週ここまでにかけて、安息の日々でした。
*
ここからは業務連絡になりますが、
百年の孤独、そろそろ読みはじめようかと思っとります。
まだ他のマルケス本が途中だったりしますが
一足お先に、なのか、周回遅れなのかわかりませんが、
白井は読むのが遅いので、亀として遅々として歩み出さねばなるまいて。
ふおつ、ふおつ、ふおつ。
2008/6/25
追
『フェルトでつくる 暮らしの小物たち』(サルビア編 PHP研究所)
本日店頭に出ているかと思われます。
冒頭の物語詩をどうぞ見たってくださいませm(_ _)m

________
六月なかばまでのくるしい時期をすぎて、
いま心がおちついているし、元気がすこしずつ出てきています。
それまでも別段、とんでもなくくるすぃ、、というわけではなかったのですが
いまのこの平穏さは今年これまで、あんまりなかったものです。
ほ。
*
話したい人と、たとえば会って、たとえばメールで
ゆっくりとやりとりができるよゆうが返ってきつつあることは
すごくありがたいこと。
*
昨日はセキさんに教わり、詩人にはたまらない展覧会をみてきました。
じぶんのお気に入りの書物を、市販の装丁ではなく、
製本家に依頼してオリジナルの装丁にし直して愛蔵する
ルリユールという、本を愛でる文化がヨーロッパを中心にあるのですが、
そのルリユールの作品がならぶ展覧会の最終日になんとか滑り込むことができました。
季刊サルビアのリレーエッセイで、辻さんが紹介なさっていた作家、
羽田野麻吏さんの、10編の詩をモチーフにした作品。
けれど、いわゆる表紙がついて本文があってというかたちではなく、
活版印刷のために組版された活字のブロックそれ自体を
手製の(詩のイメージから生まれたかたちの)箱に収めたり、
小川敦生さんのドローイングをほどこした透明なケースのなかに、
白い紙製のミニチュアのベッドのようなものを入れ、その紙のうえに活字を捺し当てて
うっすらと読める文字の跡を刻印したりし、
大手拓次、尾形亀之助、山村暮鳥などなどの詩篇をそれらのかたちと同化させた作品が
くらがりのなか、スポットライトにより浮かび上がっていました。
紙に文字が刷られ、万人に読めるように開かれているのが多くの詩集のありようであるなら、
じぶんだけの世界に詩を封じ込め、ただ心に落ちる詩編を自らのためだけに愛でようとする、
ルリユール作家いわく「強欲」なありようが、この作品なのだそう。
けれどながめていると、それらの詩たちは、心地よい安息の場所を得たかのように幸福そうなたたずまいでいて、
もしや象徴的なのは、小川敦生に依頼したという透明ケースにほどこされたドローイングかもしれないけれども、
一筆書きで、なおかつ始まりと終わりとを一致させる円環の、一本の線が描いた花の図柄から
終わりのない花、永遠への希求の、そこはかとない匂いを感じさせられさえしました。
詩とは書かれた文字にあるのか、書き手の脳内にあるのか、受け手の胸に落ちてはじめて生まれるのか、
それらのどこにも詩はあるといえます。また、詩はどこかにあるというものではないともいえます。
この作品たちにおいて、詩の痕跡は、組版された活字のブロックや、白い紙製のベッドのうえの刻印に読みとれますが、
そこに詩のありかが指し示されている、と限定的に解する必要はないでしょう。
羽田野麻吏の10の作品において、詩は作品やそのあたりの空気や作家や作品を見る者に同化している、と。
だからこそ、秘匿の箱を開示し展示してあるのかもしれません。
秘匿を打ち明けるとは、秘匿が消えることでもあります。
では消えた秘匿、つまり詩はどこへいったのか。
どこへもいかず、そこここにひろがっている。
消えた秘匿は、失われたわけではなく、
より広い関係性(作り手と受け手、作品と空間、展覧会期とそれ以外の時間)となって拡大したのです。
展覧会のダイレクトメールにはこうあります。
「刷られることなく囚われた詩は、閉じられた箱の中に、/閉じられた線の中に芬香の如く静かに広がります。
活字組版による詩のオブジェと箱の展示をお愉しみ下さい。」
作品から芬香が放たれるのは、閉じてある状態でも起こることでしょう。
そして、秘匿が開陳されたことがある、というその一点によってもまた
空間的に、時間的に、そして受け手への関係性の連鎖的にひろがりを生むことになるでしょう。
詩は刷られた文字にあることを必須としません。
むしろ、詩を生みだしたそもそもの詩こころ/ポエジーは
ひらひらとどこかの宙空を舞っているのかもしれず、
とらえどころのないそれらをつかまえきるのではなく、所在の暗示によって逆にすべてを把握しきる、
というありようをこれらの作品から感じました。
心をつかみとることはできないかもしれない。
けれど、一瞬の表情から、心のすべてをあらわにすることができる、とそう想像して
表情の一瞬を封じ込める技を凝らすように。
製本の作家に愛される詩という存在は幸せだ。
そう深く感じさせられる作品でした。
「dix mesangettes 10編の詩のための秘匿箱 羽田野麻吏展」
ドローイング/小川敦生
clementsalon*workshopにて
6/4-23
*こちらのブログに写真付きで紹介されています。
ex-chamber museum
*残念ながら23日が最終日だったのですが、
京都の恵文社という書店に、作品を出展なさるとのことです。
2008/6/23 午後
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『フェルトでつくる 暮らしの小物たち』(サルビア編 PHP研究所)がとうとう出ます!
フェルトをつかって、ちょきちょき、ちくちくやって、
意外なほど立体としてしっかりしたバッグだったり、
ちょこっとした簡単なコースターなんだけどかわいかったり、といったものを
イメージしやすく、わかりやすくつくれる本です。
小物は、セキさん作のサルビアの図案を、上原かなえさんが仕立てたもの。
それらの作品を撮影した、高橋京子さんの雰囲気のある写真に、
「フェルトの森の物語」という詩を白井が添えています。
25日ごろ店頭にならぶそうなので、どうぞごらんください。m(_ _)m

2008/6/23
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6月13日(金)から16日(月)まで沖縄へ行っていました。
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土日の昼をおきなわそば屋で食べたのですが、
土曜は南部の「ちなー」で、
日曜は北部の「コッコ食堂」で、
どちらの店も戦前からある古民家を残して営業しており
(ちなーは古民家そのものを店に、コッコ食堂は店に隣接して古民家が)、
その共通項が印象に残りました。
天気は大崩れすることはなく、くもりのときどきに晴れ間があり、夏直前のすごしやすい気候でした。
いとこたちが土曜の夜にバーベキューを開いてくれて、
肉も野菜もお酒もたんまりいただいたのが幸福でした。
*
沖縄詩篇は週明けのきょう本文の用紙の色とサイズを決め、工房に連絡しました。
あとは刷り上がりを待つ、という段階です。
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カルピスの七夕ファンタジーというホームページで、カルピスにまつわる童話を2本書きました。
仕事として童話を書かせていただけるということは、
とてもうれしいことでした。
カルピスの人たちが大事にしてきた4つの想いがあり、
その想いのひとつひとつを柱にすえ、物語を編んでいます。
4つの物語のうち、旅人の話と虹の話を、白井が書いています。
こちらです。「カルピス 七夕ファンタジー」
(プレゼントのお知らせもあるようなので、あわせて楽しんでくださいね)
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日本の詩を書きたいと思いつつ、どんなふうに書いたらいいのかなと
あたまのなかでうんうんと考えている日々です。
<言語そのものが詩であり、とくに日本語はそれじたいが歌である>というふうに感じますが、
ではいま準備している沖縄詩篇はどんなものかというと、
おそらくとてもわかりやすいかたちで日本古来の歌をベースにしているようにみえると思います。
ではそうしたものを指して、日本語それじたいが歌だと言いたいのかというと、むしろそうではありません。
沖縄詩篇は、歌の形態をとっているとじぶんでは思っていますが、
日本語の詩は、歌の形態をとらなくても、日本語であればもうそれで歌なのです。
そういう日本語そのものを感じて書く詩をつくりたいです。
ではなぜこのタイミングで沖縄の詩を出すかといえば、
ずっとお蔵に入れていたものが、ここへきてようやく、かたちにできそうな気がしているからです。
心を縫う、くさまくら、とじぶんの詩の柱をふたつ出すことができて、
その周縁というか、方向性に特徴のあるものを出すことができるようになってきたのかもしれません。
白井にとっての詩は、とくに限るものではありませんが、
その最たるものはいま出している詩集2冊なのですが、
それ以外のところにも枝がのびていき、そうした枝先でこれまで書いてきたものを、かたちにしても、いいか、と。
2008/6/17
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詩集
『心を縫う』(詩学社) 1785円
『くさまくら』(花神社) 2100円 残部僅少
詩人のカレンダー “偶然” 5040円

ご希望のかたはメールください。メールには<氏名・住所>お書き添えください。
nanashi@mumeisyousetu.com
書評 *詩集の詩のいくつかはこちらに
桐田真輔さんの『心を縫う』の書評
桐田真輔さんの『くさまくら』の書評
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